はじめに
呉の孫権を支えた武将たちの中には、周瑜や陸遜といった軍師や、甘寧や呂蒙が有名ですが、その中でも一際異彩を放つのが朱桓です。彼は単なる武力に秀でただけでなく、知略にも優れた武将でした。しかし、その豪胆さと性格から、時として周囲と衝突することもありました。この記事では、そんな朱桓の生涯を深掘りし、彼の功績や人物像、戦歴などを解説していきます。
県令となって民を飢饉から救う
字は休穆(きゅうぼく)。揚州呉郡呉県の出身です。この地域は孫家の本拠地でもあり、多くの名将を輩出しました。朱桓の家系は詳しく分かっていませんが、彼が若くして孫権に仕え、順調に出世したことから、ある程度の家柄があった可能性が考えられます。
孫権が将軍となった時、その側近となり、後に余姚県令となります。当時、余姚県では疫病と飢饉が蔓延し、食品の物価も高騰していました。朱桓は、優秀な役人を選抜して、民の病気の治療や施策を行ったため、信望を集めました。
主な戦歴・活躍
山越の反乱を平定する
盪寇(とうこう)校尉となった際、2000の兵士を与えられ、呉郡と会稽郡で軍隊の編成を任されています。1年程でばらばらになっていた兵士を集め、兵の数は1万になります。当時、丹陽郡や鄱陽郡では、山越という不服従民が反乱を起こしていました。山越が徒党を組み、街の略奪や地方官の殺害を始めますが、朱桓はこれを迅速に平定しました。この功績が認められ、朱桓は裨将軍・新城亭侯となります。
石亭の戦いで曹休を破る
228年、孫権は魏の曹休を呉の領内に誘い込むため、鄱陽太守の周魴に偽装投降を命じて、曹休を石亭まで誘い出すことに成功します。曹休は騙されたことに気付きますが、10万の兵を率いていたためそのまま石亭で決戦となりました。この時、朱桓は陸遜の指揮の下、3万の兵を率いて軍の左翼を担い(右翼は全琮)、左右から曹休軍を奇襲することで、壊滅状態に追い込み勝利を収めました。
朱桓は、曹休を皇族というだけで将軍になった人物と侮り、曹休を生け捕るため、1万の兵を用いて退路を断つことを進言しましたが、孫権と事前に相談した作戦の実行を優先した陸遜に却下されています。
濡須口の戦いでの朱桓の活躍を物語形式で紹介!
曹仁相手に劣勢を余儀なくされる
濡須口は、合肥にある巣湖の南岸に位置しており、巣湖と長江が交わる河口部を濡須口と呼びます。呉にとって濡須は、魏との揚州方面での最前線に位置しており、国防の一大拠点です。また、同じ巣湖の北岸には魏の重要拠点である合肥城があり、ここを攻略する上でも濡須口は要衝でした。
223年、周泰の後を継いで濡須の督となった朱桓は、1万の兵を率いて濡須城の守備にあたり、濡須口に数万の兵を率いて侵攻した曹仁と対峙することになります。
曹仁は兵を分散して、中洲を攻撃すると宣言します。これは朱桓の兵力を分散させ、実際には全兵力で濡須口を攻撃するという作戦だったのです。朱桓はこの計略にかかり、自らは濡須城に残り、半分の兵を別動隊として中洲に派遣します。一方、曹仁は自らは後方で総指揮を執り、子の曹泰に濡須城を攻撃させ、将軍の常雕には諸葛虔・王双らを指揮させて複数路から船で攻め、中洲を攻撃させました。朱桓は、手元に5000程の兵しか残らない劣勢を余儀なくされました。圧倒的な兵力差を前に、呉軍全体に不穏な空気が漂い始めます。
戦いの勝敗は指揮官で決まる
しかし、歴戦の朱桓は違いました。「戦というものは兵力ではなく指揮官の質によって勝敗が決まるものだ。俺と曹丕では俺の方が遥かに優れているし、まして曹丕の部将の曹仁など問題にならない。それに曹仁の軍は遠征で疲弊しているし、地の利を得ているのはこちらの方だ」と豪語し、兵を叱咤激励します。この朱桓の言葉は、呉軍全体の士気を大いに高めました。さらに朱桓は、軍旗や陣太鼓の鳴り物を潜めさせ、城の防御が実際よりもさらに弱くなっていると見せかけ、敵を誘い込みます。魏軍が正面の攻撃に全力を注いでいる今こそ、反撃の好機です。
朱桓は、濡須城を攻めてきた曹泰の部隊に火攻めを行い、撃退することに成功します。さらに朱桓は、配下の駱統や厳圭に、常雕軍の船への攻撃を命じました。駱統や厳圭の別働隊は、舟で中洲の攻撃をしてきた常雕を戦死させ、その被害は千人以上に上りました。朱桓はそのまま追撃を続け、数千人以上を斬る活躍を見せ、曹仁の部隊は撤退しました。孫権はこの功績を称え、朱桓を奮威将軍に昇進させると共に、彭城国相に任命しました。
「濡須口の戦いの戦術図(イメージ)」
魏軍本隊(曹仁)――北岸陣営
↓ 長江渡河
魏軍舟戦隊 →→→ 【長江】 ←←← 呉軍水軍
↑ 南岸防衛線
呉軍本陣(朱桓)――南岸陣営
人物像・最期
他人からの指図が嫌い
229年には、前将軍・青州牧・仮節に昇進した朱桓ですが、プライドが高く、他人からの指図を嫌う性格だったようです。そんな朱桓の悪い部分が出てしまったエピソードがあります。
孫権は全琮と朱桓の元に、偏将軍の胡綜という人物を送り、勅命を授けて特別に軍事に参加させていました。魏の呂習が偽の投降を持ちかけた際、朱桓は全琮と作戦を巡って言い争いになります。全琮は弁解しようとして、孫権が督に命じた胡綜の指示だと言ったため、朱桓の怒りは胡綜に向けられることになります。
朱桓は胡綜の陣に赴くと、そのまま乗り込んで斬り殺そうとしたため、側近の一人が胡綜に知らせ避難させます。朱桓は胡綜を見つけることが出来なかったため、胡綜を助けた側近と、それを諫めた副官を切り殺してしまいました。朱桓は病気になり、建業で治療にあたることになりますが、孫権は朱桓のこれまでの功績と能力を惜しんで、その罪を問いませんでした。
部下思いな一面
その反面、配下に対しては優しく接し、恩賞が足りない時は自身の財産を分け与えるなど、部下想いの人物でした。また、血縁の者達への援助を惜しみませんでした。朱桓には一万人の兵がいましたが、記憶力に強く、彼らと彼らの家族の顔と名前を覚えていたそうです。
238年、朱桓は62歳で病死します。その際、配下の兵の多くが朱桓の死を嘆き悲しみました。朱桓の家に財産がなかったため、孫権は葬儀のため塩五千石を送り、子の朱異が跡を継ぐことになりました。
落頭民の逸話
『捜神記』(東晋の干宝が著した奇怪な話を集めた物)には、朱桓の家で雇った召使いの女が、落頭民という南方に住む妖怪だったとの逸話が残っています。その女は夜眠ると首だけが離れ、外へと出て行くも、翌朝には元へ戻っていました。ある時、これを怪しく思った者が、夜中に女を照らして見ると、そこには頭の無い胴体があったと言います。朱桓は女を畏れ暇を出しますが、聞けばそれは落頭民という部族の特徴だったそうです。
史実と三国志演義での違い
史実の朱桓は、孫権に重用された武勇と知略に優れた将軍で、濡須口や石亭の戦いでの活躍が特に知られています。彼の勇猛で傲慢な性格もまた、史実に記された重要な人物像の一部です。
一方、『三国志演義』では、朱桓の登場シーンは比較的少なく、彼の性格や功績について詳細に描かれることはほとんどありません。彼の最も有名なエピソードである濡須口の戦いでの活躍も、演義ではわずかに触れられる程度となっています。
まとめ
朱桓は、呉を支えた知略と勇猛さを兼ね備えた武将でした。彼の生涯は、多くの戦功を挙げ、呉の防衛の要として活躍した一方で、毅然とした性格故に周囲との衝突やトラブルもあったという、人間味あふれるものでした。しかし、部下には思いやりを持って接し、戦場では武勇だけでなく、優れた指揮官として何度も呉を勝利に導きました。濡須口の戦いや石亭の戦いでの彼の活躍は、呉の基盤を築く上で不可欠なものと言えるでしょう。

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