「白眉」の由来となった馬良とはどんな人物?蜀の外交を支えた馬謖の兄

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はじめに

「白眉」と評された馬良ですが、その活躍がいまいち分からない人もいるのではないでしょうか?馬良は類まれな才能と温厚な人柄で多くの人々から慕われ、蜀の成立と安定に大きく貢献しました。しかし、彼の功績は劉備や諸葛亮といった人物の影に隠れがちです。今回は、蜀の創業期を支え、「白眉」という故事成語の由来ともなった人物、馬良に焦点を当て、その功績や役割、諸葛亮との深い関係性などを解説していきます。

「馬氏の五常、白眉最も良し」と称される

字は季常。荊州襄陽郡宜城県(現在の湖北省)の出身です。彼は、同じく蜀に仕えた馬謖の兄としても知られています。劉備が荊州を支配するようになった頃、馬謖と共に劉備に迎えられています。彼は武力ではなく、その優れた人柄と知識で劉備に仕え、蜀の建国に大きく貢献することになります。

馬良には五人の兄弟がおり、いずれも字に「常」の字を用いていました。馬家の五人兄弟は皆優れていましたが、中でも、白い眉を持つ馬良が最も優れていることから、「馬氏の五常、白眉最も良し」と称えられました。この言葉が「白眉」という故事成語となり、数ある優れた人物の中でも最も優れている者を指す言葉として、現代にも伝わっています。この逸話からも、馬良が周囲からいかに高い評価を受けていたかが分かります。

ちなみに、馬良は四男と推測されていて、三人の兄の名前は不明で、記録も残っていないようです。

馬良の人物像

学識と外交に優れる

馬良は非常に学問に優れており、深い知識と見識を持っていました。劉備は馬良の才能を高く評価し、彼を従事という役職に任命します。従事は、行政や外交において重要な役割を担う役職であり、馬良が劉備の勢力拡大において、初期から重要な役割を果たしていたことが分かります。特に劉備に仕えてからは、その知識を活かして多くの進言を行いました。特に外交面では、その才能が大いに発揮されました。彼は、劉備政権の安定に欠かせない存在となりました。

諸葛亮との関係性

馬良は、その温厚で誠実な人柄から、多くの人々に慕われていました。特に諸葛亮とは非常に親密な関係を築いていたようです。

諸葛亮が劉備を追って入蜀した際、馬良は荊州に留まって、諸葛亮に手紙を送っています。この手紙の中で、馬良は諸葛亮を「尊兄」と呼んでおり、馬良と諸葛亮が義兄弟の契りを結んでいたか、共通の親類と推測されています。馬良と諸葛亮の関係は、単なる主従関係ではなく、深い信頼があったことが読み取れます。

外交で活躍する馬良

呉との関係を円滑に保つために、馬良は孫権の使者として呉に赴くことになった際、諸葛亮に自身の紹介文の作成を依頼します。しかし、諸葛亮は馬良に試しに自分で書いてみるように言っています。馬良は自身で書いた紹介文を携え、使者として呉に赴きました。この時、孫権が馬良を厚遇したという記録が残っています。馬良の学識と人柄が、外交という重要な場面で蜀の国益を守るためには不可欠でした。

また、劉備の呉征伐に従軍した際、馬良は五渓の異民族を配下に加えることに成功し、戦力の増強に貢献しています。異民族の頭領らは蜀の官位と印綬を与えられています。

馬良の最期とその影響

夷陵の戦いで無念の戦死

夷陵の戦いで呉に大敗を喫し、馬良は36歳という若さで戦死しています。益陽市の市史・伝承によれば、帰順した異民族を率いて主戦場に向かう途中、益陽県城付近で歩騭・甘寧の軍と遭遇しています。異民族軍は呉軍に勝利したものの、馬良はここで死亡したとされています。

馬良の死が蜀に与えた影響

馬良の死は、蜀にとって大きな痛手でした。彼の死後、蜀には馬良のような内政・外交の両面で活躍できる人材が不足することになります。特に呉との関係を円滑に保つ上で、馬良は重要な役割を果たしていたため、同盟の不安定化につながりました。

また馬良を深く信頼し、その才能を頼りにしていた諸葛亮に、深い心の傷を残しました。馬良の死は、蜀の将来に暗い影を落とすことになったのです。

史実と『三国志演義』での違い

史実において、馬良は誠実で知的な人物として描かれ、劉備や諸葛亮に厚く信頼されていました。特に、外交面で重要な役割を果たした有能な政治家として描写されています。彼の「白眉」の逸話や、夷陵の戦いでの戦死も正史に基づいています。

一方『三国志演義』では、馬良は史実と同様、知将として描かれていますが、その活躍は簡略化されています。特に、夷陵の戦いでの描写は少なく、劉備の側近としての一面に焦点を当てています。また演義では、馬良が諸葛亮の南蛮征伐にも同行したように描かれていますが、史実にこのような記載はありません。

関羽が樊城を守る曹仁を攻めた際、馬良はこれに同行しています。左腕に毒矢を受け、名医華佗の手術を受けた関羽は、馬良と囲碁をし、談笑しながら平然と手術を終える場面が描かれています。呉に背後から襲撃された関羽が窮地に追い込まれると、馬良は成都へ援軍を求めに走りますが、成都へ着いた翌朝、関羽の死が報じられました。

夷陵の戦いでは、夏の暑さを避けるため、劉備の命令で陣営を木陰へ移動することになった際、馬良は劉備に移動中に攻められたらどうするか問います。劉備は配下の者を呉の陣営の近くに留め、呉が打って出たところを伏兵で叩くと返答します。周りの者は感心しますが、安心できない馬良は、布陣の図面を諸葛亮に見せて意見を聞くように勧めます。劉備はこれを許可し、馬良を諸葛亮の元へ走らせました。

諸葛亮は図面を見るやため息。湿地に沿いながら700里にも及ぶ布陣を、劉備自らが考えて実行したと聞いて「これで蜀は終わるのか」と嘆きますが、馬良に布陣を改めること、もし敗戦していたら白帝城に避難するように伝え、馬良を急ぎ劉備の元へ帰したのでした。しかし、蜀軍は陸遜の火刑に惨敗し、多くの将兵が戦死することとなり、劉備も白帝城で病没する結果となります。

史実と異なり、『三国志演義』での馬良は、夷陵の戦いでは戦死せず、南蛮征伐の最中に死去したことになっており、馬謖が諸葛亮にその死を告げています。

まとめ

馬良は、「白眉」の故事成語の由来となったように、傑出した才能を持つ人物でした。彼は武力ではなく、その優れた学識と誠実な人柄で劉備と諸葛亮に仕えます。特に、諸葛亮とは深い信頼関係で結ばれており、蜀の内政・外交を支えました。しかし、夷陵の戦いで戦死するという悲劇的な最期を迎え、その死は蜀に大きな影響を与えました。馬良の死は、蜀にとって計り知れない損失であり、その将来に暗い影を落とすことになります。

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