龐徳とは?樊城の戦いでの関羽との死闘と壮絶な最期を解説!

目次

はじめに

今回は、数多の武将の中でも、その忠義心と武勇で後世に名を残した龐徳に焦点を当てます。馬超の配下から曹操に仕え、最後は関羽との壮絶な戦いの末に命を落とした龐徳。まさに激動の時代を駆け抜けた生涯と言えます。この記事では、龐徳の生い立ちから、人物像や活躍、壮絶な最期までを史実に基づいて詳しく解説していきます。

君主が変わるも忠義を尽くす人生

馬超の父、馬騰に仕える

龐徳は、字は令明。後漢末期の涼州南安郡(現在の甘粛省)の出身です。龐徳は元々、馬超の父である馬騰に仕えており、涼州で羌族などの異民族の反乱を抑え、その武勇を認められていました。

官渡の戦いの後、袁紹の甥である高幹が反乱を起こした際、高幹の部将である郭援が、曹操軍の占領していた河東を攻めてきます。曹操の命で関中軍閥を束ねていた鍾繇は、郭援の軍勢に苦戦し、馬騰に援軍を要請します。この要請に応じた馬騰が、派遣したのが龐徳でした。龐徳は馬騰軍の先鋒として、郭援の軍勢を大いに破り、郭援を討ち取ることに成功します。この龐徳の功績を称えた鍾繇が、曹操にこれを報告し、龐徳は中郎将に任命されています。

馬超配下として戦う

馬騰が長安で没した後、馬超の配下となった龐徳は、彼の右腕として各地を転戦します。潼関の戦いで馬超が曹操に反旗を翻した際には、その先鋒として活躍しました。彼は常に馬超のそばにあり、その信頼は非常に厚いものでした。しかし、馬超が曹操に敗れ、後に劉備に仕えることになった際、龐徳は病気で馬超に従うことができず、漢中に留まることになりました。

曹操に降伏し、配下になる

馬超が劉備に降伏した後、龐徳は漢中で曹操軍の攻撃を受けます。この時、曹操にその武勇を認められ、降伏を勧められます。龐徳は当初、曹操に仕えることにためらいを感じていましたが、最終的にその誠実な人柄と才能を重んじていることを知り、曹操に仕えることを決意します。この時、彼は曹操に対して「命を賭けて尽くします」と誓い、その忠誠を証明するために、自らの姓を曹氏に改めたいと申し出たと言われています。曹操はこれを「立派な志だ」と称え、彼の申し出は受け入れられませんでしたが、龐徳の深い忠義心は曹操軍の将兵に広く知れ渡ることとなりました。

性格・戦術的特徴

龐徳の性格は、非常に豪胆で勇猛果敢でした。常に危険を顧みず戦いの先頭に立ち、敵に立ち向かう姿勢は、多くの武将から尊敬を集めていました。また一度仕えると決めた主君には、どのような状況下でも最後まで尽くすという強い信念を持っていました。馬超から曹操へと主君を変えることになりましたが、これは自らの意思ではなく、時代の流れと不可抗力によるものであり、曹操に仕えてからは、魏の武将として、その忠義を全うしています。

戦術面では、一騎当千の武勇に加え、優れた戦術眼も持ち合わせていました。特に、敵将との一騎打ちや、戦場での突撃を得意とし、弓術にも長けていました。彼の戦い方は、相手の陣形を崩すことに主眼を置いた、非常に攻撃的なものでした。

樊城の戦いでの関羽との死闘を物語形式で紹介!

背景・地理的要因

西暦219年、漢王朝の実権を握り、魏王の位についた曹操は、南方への勢力拡大を図っていました。その最前線として重要な拠点となっていたのが、荊州北部の樊城です。この地を巡り、曹操軍と関羽が激しく衝突しました。

樊城は漢水の南岸に位置し、対岸にある襄陽城と対をなす重要な軍事拠点です。この一帯は平野が広がり、漢水という大河が流れるため、水上での輸送や戦闘が重要でした。特に、漢水が増水しやすい秋の季節には、その流れが戦況を大きく左右する要因となっていたのです。

関羽は荊州奪還のため、長江中流域の南郡から北上し、まず襄陽を包囲。そして曹操軍が守る樊城にも迫りました。曹操は関羽の猛攻を食い止めるべく、将軍の曹仁に樊城の守りを任せ、さらに援軍として于禁と龐徳を派遣します。

関羽の思惑と水攻めの危機

援軍として樊城に到着した于禁と龐徳は、樊城から北に位置する偃城に布陣しました。関羽軍は、樊城と偃城の両方を包囲する形で攻勢を強めます。関羽は卓越した統率力と個人の武勇に加え、水軍も巧みに用いていました。一方、于禁と龐徳は、関羽の戦術に苦戦を強いられます。特に、この年の秋は記録的な豪雨に見舞われ、漢水が大幅に増水していました。

龐徳は、自ら最前線に立って関羽軍に立ち向かいました。彼は常に白馬に乗り、一騎当千の勢いで敵を蹴散らし奮闘します。龐徳は白馬に乗るのを常としていたため、関羽の軍勢は龐徳を白馬将軍と呼んで畏れました。

しかし、戦況は思わぬ方向へと傾きます。激しい豪雨によって漢水が氾濫し、堰き止められていた水が一気に放流されたのです。関羽はかねてよりこの地形を利用した水攻めを計画しており、まさにその計画が実行されたのでした。

最後まで抵抗するも捕らえられる龐徳

突如として押し寄せた濁流は、于禁と龐徳が布陣していた偃城を飲み込みました。于禁率いる大軍は、一瞬にして水没し、兵士たちはなすすべもなく流されてしまうという壊滅的な被害を受けます。もうどうにもならない状況に、于禁は関羽に降伏しますが、龐徳は違いました。彼は最後まで忠義を貫くことを決意します。

濁流の中、龐徳はわずかに残った兵士たちとともに高台へと逃れ、懸命に抵抗を続けますが、増水した漢水に囲まれた高台は、もはや孤立無援でした。関羽は水軍を率いてこの高台を包囲し、徹底的に攻撃を仕掛けます。これに龐徳は弓をとって最後まで抵抗します。

夜明けから午後にかけて戦闘は続きますが、龐徳は矢が尽きたため、濁流の中、部隊長2人と共に関羽に抵抗を続けながら小舟に乗り、諦めずに曹仁の元に帰還しようとします。しかし、水の勢いで小舟が転覆してしまった所を、ついに捕えられました。

関羽は龐徳の武勇と忠義を高く評価し、降伏を勧めます。 「今こそ我が軍に加わり、ともに天下を治めようではないか」 関羽の言葉に対し、龐徳は「私は魏王の恩義を受け、忠義を尽くすことを誓った者。たとえ首を刎ねられようとも、決して志を変えることはない」と毅然とした態度で答えます。龐徳の決意は固く、関羽もこれ以上の説得は無意味だと悟りました。

龐徳の壮絶な最期と于禁との対比

そして、龐徳は潔く首を刎ねられました。彼の忠義と勇猛さは、敵である関羽からも称賛され、後世にまで語り継がれることとなります。彼の墓は現在も樊城の地にあり、訪れる人々にその壮絶な最期を物語っているのです。

曹操は、龐徳の最期の言葉を聞いて涙を流して悲しみました。またこの時曹操は、長年仕えていた于禁が、関羽に降伏したことと、龐徳の死に様を対比し「わしが于禁を知ってから30年になる。危機を前にし困難に遭って、新参の龐徳に及ばなかったとは思いもよらなかった」と語ったそうです。

彼の死後、曹操は彼の忠義を称え、息子の龐会に爵位を与えました。また、魏の皇帝となった曹丕もまた、龐徳の功績を称え、彼の霊廟を建立しました。

「樊城の戦いの戦術図(イメージ)」

        ┌───── 襄陽方面
        │
 [魏・于禁軍本陣]───漢水───[蜀・関羽軍本陣]
     /         ~~~~~水流~~~~~         \

[魏・龐徳右翼] [蜀・水軍]
\ (低湿地・伏兵) /
└───── 樊城(曹仁守備)

史実と『三国志演義』での違い

龐徳の物語は、史実と『三国志演義』とでいくつかの違いがあります。『三国志演義』では、龐徳が曹操に仕える経緯がより劇的に描かれており、彼の武勇が強調されています。特に、関羽との一騎打ちの場面は、史実にはない『演義』独自の描写であり、龐徳の武人としての魅力を際立たせています。

また、『演義』では、龐徳が馬超の弟であると設定されており、関羽との因縁がより深くなっています。しかし、史実における龐徳の忠義心と壮絶な最期は、『演義』でもほぼ忠実に描かれており、彼の人物像の核となる部分は共通しています。

まとめ

龐徳は、その生涯を通じて忠義と武勇を体現した武将として評価されています。彼は、馬超に仕えていた頃からその武勇を高く評価されていましたが、曹操に帰順してからは、その忠誠心によってさらにその評価を高めました。特に、樊城の戦いでの壮絶な最期は、彼が単なる武勇に優れた武将ではなく、信念を貫いた高潔な人物であったことを示しています。彼の忠義は、曹操軍の将兵だけでなく、敵将である関羽にさえも認められる程のものであり、忠義の象徴として歴史に名を刻むことになりました。

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