劉封:関羽と孟達との因縁?悲劇の最期を迎えた劉備の養子

目次

はじめに

三国志の世界には、多くの武将や文官が華々しい活躍を見せますが、その陰で悲劇的な運命を辿った人物も少なくありません。劉封は劉備の養子という特別な立場にありながら、様々な要素や不運が重なり、最終的には劉備によって死刑されるという壮絶な最期を迎えます。関羽の死に関わった人物として知られる劉封ですが、彼の悲劇的な最期の背景には、優れた武勇、蜀の内部事情、そして劉備の苦渋の決断が深く関わっています。

この記事では劉封の生涯を深掘りし、彼の武勇が悲劇へと転じた真実、運命を分けた関羽救援をめぐる判断について詳しく解説していきます。

劉備の養子となった経緯と人物像

字は不明。荊州長沙郡羅県の出身です。劉封は元々、長沙郡で暮らしていた劉氏の甥で、元は寇氏の子であったとされています。彼が劉備の養子となったのは、劉備が荊州にいた頃のことです。当時、劉備にはまだ実子の劉禅が生まれておらず、後継者がいなかったため、劉備は劉封を養子として迎え入れました。これにより、劉封は将来的に劉備の後継者となる可能性を持つ、極めて重要な立場を得ることになります。

劉封は武芸と気力に優れており、剛勇でした。若くして劉備の養子となり、その期待を背負った彼は武勇を活かし、戦場において数々の功績を挙げることになります。この武勇こそが彼の初期の評価を高めた一方で、後の彼の運命を決定づける要因の一つともなります。

主な戦歴・活躍

益州攻略戦や漢中争奪戦に参加

劉備が益州攻略に乗り出した時は、劉封は当時20歳過ぎでしたが、諸葛亮・張飛らと共にこの戦いに参加し、随所で武功を挙げ、益州平定後は副軍中郎将に任命されました。さらに、劉備と曹操の漢中争奪戦では、劉封は漢中を攻める劉備の本隊に参加しています。

孟達と上庸を攻略する

219年、孟達が劉備に命じられ、房陵を攻略して上庸に進軍した際、孟達一人では心許ないと思った劉備は、劉封を漢中から派遣しました。後に、彼の処刑の遠因となる孟達とは、上庸攻略で協力し、上庸太守の申耽を降伏させることに成功します。この功績で、劉封は副軍将軍に昇進しました。

しかし劉封と孟達との関係は良いとは言えず、孟達の軍楽隊を劉封が没収する事件が記録に残っています。この孟達との対立は、後に劉封の命運を決める要因の一つとなります。

樊城の戦いで関羽救援を巡る劉封の失態を物語形式で紹介!

関羽の援軍要請を拒否する劉封と孟達

219年、定軍山の戦いで劉備は曹操に勝利して漢中を奪い、漢中王を称します。これにより、関羽は前将軍に任命され、荊州における軍権も与えられました。それに伴い関羽は、曹操が支配する荊州北部にある樊城を攻略するべく、進軍を開始します。

樊城は、現在の湖北省襄陽市に位置し、漢水の南岸にある襄陽と対をなす城であり、漢水の北岸に築かれていました。この地は、中原から江南へ向かう交通の要衝であり、軍事的な重要性も非常に高い場所でした。

関羽が、曹仁の守る樊城を包囲して間もなく、長雨の影響で漢水が氾濫してしまいます。これにより、樊城に援軍として派遣された于禁率いる七軍は水没するという壊滅的な被害を受けます。関羽が船から攻撃してきたため、于禁は降伏し、関羽はさらに龐徳を討ち取ることに成功します。関羽はこの時、上庸を占領した劉封と孟達に何度も援軍を要請しますが、上庸も占領して日が浅く、まだ動揺が収まっていないという理由で二人はこれを拒否しました。この選択が劉封にとって後に悲劇となることを、この時は知る由もありませんでした。

関羽死す

関羽が樊城と襄陽も包囲し、于禁の七軍が壊滅したとの知らせを受け、曹操は樊城に徐晃を派遣します。さらに、曹操は孫権に長江南部の領有を認める条件で呉と同盟を結び、関羽を背後から攻撃するよう要請します。孫権は、荊州争奪戦などで関羽との仲が険悪になっていることや、曹操と争うより長江南部の領有を優先すべきという呂蒙の進言を受け入れ、関羽への攻撃を決定し、呂蒙を派遣しました。

関羽は呉への備えを怠らず、長江沿いに設置した見張り台に、守備兵を置いて警戒しますが、呂蒙が病気と称して前線を離れ、当時あまり名が知られていなかった陸遜が後任に就いたことで警戒を解き、江陵・公安から更に兵や物資を前線に送ります。この時、糜芳が南郡を、士仁が公安を守備していましたが、二人は関羽に軽んじられており、関羽を恐れていました。ここに着目した呂蒙は、両者に誘いをかけ寝返らせることに成功し、江陵・公安は呉に奪われてしまいます。

一方、樊城の関羽軍は曹操が派遣した徐晃の援軍に敗れ、樊城の包囲を解いて撤退することを余儀なくされます。さらに、江陵・公安が呉の呂蒙に占拠され、呂蒙が関羽の部下の妻子たちを捕虜にして厚遇しているとの知らせが入ります。これを聞いた関羽軍は完全に戦意を喪失し、大半の将兵が孫権軍に降伏しました。

関羽は益州に逃れようとしますが叶わず、孫権が江陵に自ら軍を率いてきていることを知り、西の麦城まで落ち延びます。孫権から降伏を勧告する使者が派遣されてくると、関羽は降伏を受けるふりをして逃走しました。しかし、関羽は関平らと共に退路を断たれ、捕らえられた後に斬首されるという悲惨な最期を遂げてしまいました。

関羽救援をめぐる悲劇 ― 劉封の死

孟達から魏への投降を勧められる

この関羽の死は、劉備にとって最愛の義弟と荊州を失うという、蜀の国力を決定的に衰退させる大打撃となりました。劉備は深い悲しみに暮れると同時に、その怒りの矛先は関羽の援軍要請を断った劉封と孟達に向けられました。そして、劉封の運命を大きく変えた決定的な出来事が起こります。220年、劉封との対立と劉備からの処罰を恐れ、孟達が魏に亡命したのです。

魏に亡命した孟達は建武将軍・新城太守に任命され、夏侯尚・徐晃と共に上庸の劉封を攻めました。この時、孟達は劉封の立場の危うさを指摘し、魏に投降することを促す手紙を送ります。劉封はこれに従いませんでしたが、この選択は最終的に劉封を後悔させることになります。しかし、申耽の弟の申儀が反乱を起こし、劉封を襲ったため上庸は陥落し、劉封は成都への敗走を余儀なくされました。

劉備からの死刑宣告

劉封は成都に帰還しますが、劉備の劉封への怒りは収まりませんでした。劉備は、劉封が孟達との対立によって、彼が魏へ投降するという結果を招いたこと、関羽に救援を出さなかったことを責めました。この状況下で諸葛亮は、劉封の剛勇な性格と武勇を、実子である劉禅が将来的に制御するのは難しく、脅威になる可能性を劉備に進言しました。

劉備は、劉封が関羽の救援を断った件と、将来的な政局の安定という二つの理由から、苦渋の決断を下します。劉封は、劉備の命により自決を命じられ、その生涯を閉じました。自決の際、劉封は「ああ、孟達の言葉に従わなかったばかりに…」と嘆きました。これを聞いた劉備は涙を流しています。劉封の死は、劉備の感情的な怒りと政治判断の狭間で犠牲になった悲劇的な結末と言えます。

『三国志演義』での描写

『三国志演義』では、劉備が劉封の器量に惚れたことによって養子となり、史実とは順序が逆転して、劉禅が生まれた以降に養子に迎えられています。それを知った関羽から劉備は、阿斗(劉禅)君がいるのになぜ養子をとるのですか?と聞かれています。

以降は、劉璋配下の高沛・楊懐を斬るなどの見せ場があったり、孟達と共に活躍して、徐晃と曹操の子の曹彰に敗れるシーンが描写されています。

麦城で呂蒙に包囲された関羽が、援軍を要請するも孟達の進言で見殺しにし、翌年に孟達の裏切りで、徐晃・夏侯尚率いる魏軍に大敗し、成都に帰還します。怒った劉備は劉封の処刑を部下に命じますが、劉封が孟達からの魏への投降を断り、使者を斬って信書を破り捨てていたことを理由に諸葛亮らが処刑の中止を進言するも、一足遅く劉封は処刑されてしまいます。劉備は、一時の怒りで劉封を処刑してしまったことを嘆き悲しみ、病に倒れる展開となっています。

まとめ

劉封は武勇に優れ、劉備の養子として将来を期待されていましたが、その生涯は悲劇的な結末を迎えました。彼は若くして益州平定や上庸攻略で功績を残しますが、関羽からの援軍要請を断った結果、関羽が戦死したことが、彼の運命を決定づけました。劉封が劉備から最終的に自決を命じられたのは、他にも様々な要因や不運が重なった結果と言えます。劉備の養子という特殊な立場、剛勇さが劉禅にとって脅威になると判断されたこと、孟達との対立、孟達が魏に亡命したこと、孟達からの魏への投降を断ったことなどが挙げられます。

劉備が劉封に死を命じたのは、関羽の死への怒りだけでなく、後継者の劉禅を守るためという国家的な大義に基づく非情な決断でした。劉封の死は、家族と国家の存続という課題に直面した劉備の苦悩を浮き彫りにしたエピソードの一つと言えます。

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