はじめに
三国志の数々の武将の中でも、曹仁は曹操の従兄弟でありながら、その功績は単なる身内という枠を超え、魏の建国に不可欠な存在となりました。常に最前線で敵の猛攻を防ぎ、時には自ら先陣を切って突撃するその姿は、まさに守将と呼ぶにふさわしいものです。この記事では、曹仁の人物像や知られざる功績、その生涯について詳しく解説していきます。
曹操の従兄弟である曹仁
字は子孝。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身です。彼の父は曹熾(そうし)、祖父は曹褒(そうほう)で、曹仁は曹操の従弟にあたります。父の曹熾は、侍中・長水校尉を務め、弟の曹純が14歳の時に亡くなりますが、曹仁は曹純とは別居していたようです。曹仁は若い頃から弓術や馬術、狩猟を好みました。
曹操が董卓討伐のために挙兵した際、曹仁は1000人程の若者を率いて合流しました。その後、曹操の配下に入り、別部司馬・行厲鋒校尉となります。彼は常に曹操の傍らにあり、その右腕として数々の戦役で重要な役割を担いました。曹操は彼のことを深く信頼しており、困難な任務や重要な防衛を任せる際には、常に曹仁を指名しました。
曹操軍の騎兵隊長
陶謙との戦いでは、騎兵を率いて先鋒となり、別軍を指揮して陶謙の部将の呂由を破ります。本隊に合流した後も大いに功績を挙げ、陶謙が派遣してきた援軍も、曹仁は再び騎兵を率いて撃破しています。
曹操が黄巾賊を討伐し、献帝を迎えて許昌を都に置いた際、曹仁はしばしば功績を立て、広陽太守に任命されます。しかし、曹操は曹仁の勇気と智略を評価していたので、広陽郡に赴任させずに、騎兵隊を指揮させています。曹仁の騎兵隊が、それだけ優れていたことが伺えるエピソードですね。
主な戦歴・活躍
強敵との戦いで手柄を立てる
193年の袁術との戦いでは、多くの敵兵を討ち取り、194年の呂布との戦いでは、別軍を指揮して句陽を攻め落とす手柄を立てています。197年、宛城の戦いで曹操が張繍と戦った際は、曹仁は別軍を率いて近隣の県を攻撃し、男女3000人余りを捕虜にしています。張繍の奇襲を受け、曹操軍は典韋や曹昴を失うという多大な被害を出しますが、曹仁は指揮下の将兵を励まし、奮戦します。結果、張繡を帰順させることに成功し、曹操は曹仁の働きに深く感謝しました。
官渡の戦いで貢献
200年、官渡の戦いで曹操が袁紹と対峙した際、当時袁紹の下にいた劉備が、多くの諸県を袁紹側に寝返らせていたため、曹操は不安になっていました。曹仁は曹操に対し、「劉備が指揮を執っているのは袁紹の兵なので、その運用に慣れておらず、戦えば勝てます」と主張し、曹操はこれに納得します。曹仁は騎兵を率いて劉備を破り、離反した諸県を全て奪還しました。
また、曹操軍の西方の交通路を遮断しようとする韓猛を撃破し、史渙らと共に袁紹の兵糧車を襲撃して、焼き払うことに成功しています。
防衛線の要として活躍する
208年の南郡攻防戦で、江陵を防衛する曹仁は、行征南将軍として呉の周瑜と戦います。曹仁は部将の牛金に300の兵を与え、周瑜の先鋒の6000騎の軍勢と戦わせますが、牛金は包囲されてしまいます。曹仁は精鋭数十騎を引き連れて敵陣に突入し、果敢に牛金を救出した後、取り残された兵がいたので再び敵陣に突入して救出しました。この曹仁の勇敢さは「将軍は本当に天上世界の人だ」と称賛されました。曹操は、曹仁を安平亭侯に国替えし、この功績を評価しています。曹仁は一年余り江陵を守り、周瑜を負傷させるなど善戦しますが、最後は周瑜に敗れ、江陵を失う結果となりました。
211年、馬超と韓遂が潼関で反乱を起こした際、曹仁は曹操から行安西将軍に任命され、曹操が到着するまで潼関の守備を任されました。馬超の騎兵は非常に強力で、曹操軍は苦戦を強いられますが、曹仁は馬超軍の進撃を食い止めました。彼は最前線で指揮を執り、兵士たちの士気を鼓舞し、見事に勝利に貢献しました。
曹仁の人物像
勇猛さと冷静さを兼ね備える
曹仁は、戦場において誰よりも勇猛であり、自ら先陣を切って敵陣に突撃するほどの豪胆さを持っていましたが、同時に戦局を冷静に判断する知略も兼ね備えていました。南郡攻防戦では、圧倒的に不利な状況で、堅実な防衛策をとり、敵の消耗を誘いました。また、潼関の戦いでは、地の利を生かした陣形を構築し、馬超の強力な騎兵を封じました。曹仁は、単なる武力に優れた将軍ではなく、軍の指揮官としても非常に優秀であり、部下や同僚からも厚く信頼されていました。
また、曹仁の知略を示すこんなエピソードがあります。籠城する敵に対し、曹操は「一人残らず穴埋めにせよ」と命令するも、攻め落とせないことがありました。そこで曹仁は、「城を囲む時には必ず生きる道を開けておくものです。必ず殺す事を告げて、固い城を攻めるのは良策ではありません」と進言します。曹操がこの意見に従うと、敵は降伏しました。
曹操・曹丕からの信頼
曹仁は若い頃は乱暴者でしたが、曹操に従い始めると過去の行為を戒めて成長し、厳格に法を遵守し、諸将の見本になったとされています。彼は曹操の親族であるだけでなく、その才能と忠誠心から、曹操から絶大な信頼を寄せられており、荊州などの重要な防衛拠点や、危険の高い任務を任されました。曹仁は、戦う時は常に曹操の軍令を手元に置き、確認して命令を遵守していたそうです。
また曹丕も、曹仁を大司馬という魏の最高位に任命し、彼を重用しました。曹丕は曹彰に対し、曹仁を見習って軍令を適用するようにと手紙で忠告するほど、曹仁を称えています。
樊城の戦いでの曹仁の活躍を物語形式で紹介!
背景・地理的要因
魏・呉・蜀の三国にとって荊州は戦略上の要衝として、常に争奪の的でしたが、219年、荊州の支配を巡り、緊迫した状況が生まれます。定軍山の戦いで、劉備は曹操に勝利して漢中を奪い、関羽は荊州における軍権を与えられました。それに伴い関羽は、曹操が支配する荊州北部にある樊城を攻略するべく、北上を開始します。
樊城は、襄陽の対岸に位置し、漢水の北岸に築かれた堅固な城塞です。この地域は平坦な土地が広がっていますが、漢水という大河が隣接しており、水上からの攻撃にも警戒が必要な場所でした。この時、樊城の守備を任されていたのが曹仁です。
孤立無援の中、奮起する
曹操は、関羽が樊城に進軍したことを知ると、于禁を大将にした7軍を曹仁の下に派遣します。曹仁は龐徳を遊軍として城外に出して関羽と戦わせますが、この時、長雨の影響で増水した川が氾濫してしまいます。関羽は洪水に備え船を用意していましたが、曹仁たちは特に対策もしてなかったため、樊城一帯の魏軍兵士は水没するという、壊滅的被害に見舞われます。于禁は高台に上ることで難を逃れますが、関羽が水軍を使って攻撃してきたので、3万の兵と共に降伏します。一方、龐徳は最後まで抵抗を続けますが、関羽に討ち取られました。
樊城の城壁が水没し、食糧も尽きかけるという危機的状況に、城内の兵士たちは動揺し、士気は低下。さらに数千の人馬しか残っていないという、孤立無援の状況の中、一部の将兵は逃亡を考え始め、城を捨ててでも高台へ避難しようと進言する者も現れました。
満寵はこれに反対し、曹仁はこの判断を支持しました。曹仁は満寵と共に、徐晃の援軍が到着するまでの間、軍規を徹底し、兵を鼓舞して、関羽の猛攻を防ぎ切ります。徐晃の援軍が関羽を攻撃すると、曹仁も城から出て攻撃し、関羽を撤退させることに成功しました。
「樊城の戦いの戦術図(イメージ)」
北
↑
漢水 ──────────
関羽軍水軍
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■■■■■■■■ ← 樊城(曹仁守備)
■ 城壁 ■
■ ■
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曹仁の最期と後世の評価
曹丕が即位すると、曹仁は車騎将軍・都督荊揚益三州諸軍事・陳侯に任命され、呉に対する方面軍司令官に就任します。後に大将軍・大司馬にまで昇進し、魏の軍事の中枢を担うも、223年、病のため56歳で亡くなります。曹丕は彼の功績を称え、忠侯という諡号を贈りました。この諡号は、彼が生涯にわたって曹操と魏に忠誠を尽くしたことを示しています。
歴史評論を記した『傅子』では、曹仁の武勇は孟賁(もうほん)・夏育に匹敵し、張遼はその次に位置すると評価しています。孟賁は秦の将軍、夏育は後漢末期の武将だそうです。
史実と『三国志演義』での違い
史実の曹仁は、冷静沈着な指揮官であり、特に防衛戦でその真価を発揮した名将として描かれています。彼は軍事的な才能だけでなく、人望も厚く、曹操や曹丕からの信頼も絶大でした。多くの戦役で重要な役割を果たし、魏の礎を築いた功臣です。
一方、『三国志演義』の曹仁は、史実よりもやや粗暴で短気な人物として描かれる傾向があります。特に、周瑜との南郡攻防戦では、周瑜の計略に何度もはまり、城を奪われるなど、その知略が史実よりも低く評価されています。演義では、彼の武勇が強調される一方で、知的な側面が軽視されがちです。また、演義では、彼が関羽に敗北する場面が誇張され、関羽の武勇を引き立てるための引き立て役として描かれることが多く、その本来の功績が過小評価されています。
まとめ
曹仁は、曹操の従兄弟であり、魏の礎を築いた偉大な武将でした。彼は勇猛さと冷静な判断力を兼ね備え、特に防衛戦においては比類なき才能を発揮しました。官渡の戦い、潼関の戦い、樊城の戦いなど、数々の重要な戦役で活躍し、曹操軍の勝利に大きく貢献しました。彼は単なる武将ではなく、人望に厚く、主君から深く信頼されていました。曹仁の生涯は、曹氏の天下統一のために尽くされた、忠義の人生であったと言えるでしょう。

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