はじめに
曹休は曹操の一族であり、若くしてその才能を認められた彼は、魏の天下統一に大きく貢献し、その名声にふさわしい活躍を見せました。しかし、最後には悲劇的な結末を迎えた人物として知られています。この記事では、曹休の登場から晩年、曹休がなぜ曹操に信頼され、どのような活躍をしたのかご紹介します。
曹操と深い関係にある曹休
字は文烈。曹休は、曹操の族子(親戚の子)として生まれました。彼の父は曹操の従兄弟にあたる人物で、曹休自身も若い頃から曹操のそばで養育されました。このため、曹休は曹操の一族の中でも特別な立場にあり、血縁だけでなく、幼少期からの深い絆で結ばれていました。曹休の一族は代々官吏を務めており、家柄も良かったとされています。
曹休が登場するのは漢の末期、天下が乱れ始めた頃です。彼は戦乱を避けて故郷を離れていましたが、曹操が兵を挙げたという知らせを聞き、単身で曹操のもとに駆けつけました。この時の彼の行動力と忠誠心は、曹操に深く感銘を与えたと言われています。曹操は彼を一目見て、「この子は我が家の千里の駒だ」と評し、自分の子たちと同じように可愛がります。その関係性は親子に近いものでした。彼は、若くして虎豹騎という精鋭部隊の指揮官に抜擢されるなど、早くから軍事的な才能を発揮しました。
曹操は彼を非常に信頼し、重要な任務を任せることが多かったようです。曹操の死後、曹丕が魏王を継ぐと、曹休はさらに重用され、魏の軍事の中枢を担う存在となっていきます。
主な戦歴と活躍
張飛と馬超を撤退させ、呉蘭を撃破する
218年、劉備が本隊を率いて漢中を攻めた際、別働隊として呉蘭・雷銅・張飛・馬超の2万の部隊を派遣して武都に攻めてきました。呉蘭・張飛らの進攻に対し、曹操は曹洪・曹真・曹休らを派遣します。この時、曹操は曹休に対し「おぬしは参軍だが、実質的な総指揮を執るのだぞ」と語っており、総指揮官の曹洪に対しても、そのようにするよう命じています。曹休は敵軍の動向を探り、食料の運搬を遮ろうとする張飛の軍はおそらく牽制であり、本命の呉蘭の兵を全力で攻撃するべきですと曹洪に進言します。曹洪はこの意見を採用し、結果呉蘭や雷銅を撃破し、張飛や馬超を撤退させることに成功しました。
濡須口の戦いで呉に敗北
曹丕が魏王を継ぐようになり、夏侯惇が亡くなると、曹休はその後任として鎮南将軍・仮節・都督諸軍事に任命され、任地へ赴く際には曹丕自ら手を取って見送られるという好待遇を受けています。
222年魏は、呉に対して巣湖一帯を巡って濡須口を攻撃することを決定します。曹休は征東大将軍となり、張遼・臧覇・賈逵・王凌ら26軍余り10万人以上を指揮することになります。曹休は張遼・臧覇らと共に呂範の水軍を攻撃、呂範の船団は暴風雨に襲われ、多くの船が流された影響もあって、数千人を討ち取ることに成功します。しかし追撃の際に呉軍の徐盛らの反撃に遭い、臧覇の軍は数千人を討ち取られ、大敗する結果に終わりました。その後曹休は軍をまとめて撤退し、揚州牧に任命され、呉への備えを任されています。
戦術的特徴
曹休は騎兵を巧みに操り、機動力を活かした攻撃を得意とし、敵の不意を突き、迅速な進軍で相手を攪乱する戦術をしばしば採用しました。若き日に虎豹騎の指揮官を務めた経験が、彼の戦術の基礎を築いたと言えるでしょう。
また曹休は、兵士からの信頼も厚く、優れた指揮官として知られていました。彼は、自らが陣頭に立って兵を鼓舞し、常に兵士の士気を高めることに努めました。また、部下への配慮も怠らず、その人柄から多くの部下に慕われました。曹休の統率力は軍の結束力を高め、多くの戦いで勝利に導く原動力となります。
石亭の戦いを物語形式で紹介!
背景・地理的要因
228年、魏は呉征伐のため、大規模な遠征を計画します。その総司令官に任じられたのが曹休でした。
石亭の地は、長江にほど近く、安徽省舒城県に位置しています。この一帯は平坦な土地が広がる一方で、山地や湿地もあり、加えて長江という巨大な障壁が行く手を阻むため、北から南へ進軍する魏にとって戦うのに苦労する場所でした。曹休はこの地で呉の動向を伺い、好機を待っていました。
周魴の偽装投降の罠
しかし、この戦いの発端には、呉の周魴という人物が仕掛けた周到な計略がありました。彼は、魏への投降を偽装するため、七通もの手紙を曹休に送ります。その内容は、呉の孫権に不満を抱いていること、そして魏に内応する意志があることを訴えるものでした。さらに、彼は孫権から詰問の使者をわざと屋敷に送り込ませ、自ら髪を剃るという徹底ぶりでした。
周魴を信じ、石亭へ進軍する曹休
曹休は周魴を信じ込み、呉への侵攻を決意します。しかし、この計画に異を唱える者がいました。それは、同じく呉への備えを任されていた賈逵です。賈逵は周魴の投降を疑い、曹休に進軍を止めるよう強く進言します。しかし、曹休は自身の判断に絶対の自信を持っていました。そして、周魴の投降という絶好の機会を逃したくないという焦りもあり、賈逵の忠告を退け、曹休は大軍を率いて石亭へと向かったのです。
待ち構える陸遜の主力部隊
石亭へと進軍した曹休は、そこで待ち受けていたものに気付きます。それは、周魴の言葉通りの呉の内応軍ではなく、呉の大都督・陸遜が率いる主力部隊でした。魏は中央に曹休の本隊、その左右に別動隊として賈逵の軍を置いていました。一方、呉は、周魴の計略を成功させ、石亭で曹休を迎え撃つべく、陸遜が中央で待ち構え、左右には朱桓と全琮の軍勢を伏兵として配置していました。
曹休はここで初めて罠にかかったことを知りますが、プライドを傷つけられ、退くことを選びませんでした。しかし、この決断が悲劇を招くことになります。陸遜の軍が正面から曹休の本隊を迎え撃つ一方、左右に伏せていた朱桓と全琮の軍勢が、魏に襲いかかりました。魏は完璧な挟み撃ちに大混乱に陥ります。
曹休は、兵士たちが次々と倒れていく中、自らも奮闘しますが、状況は絶望的でした。大軍を率いた曹休の軍は、呉の伏兵により、壊滅的な打撃を受けます。賈逵の救援によって、曹休自身は助かるも、その被害は甚大なものでした。
ちなみに、曹休にとって賈逵は命の恩人ですが、曹休は賈逵を、救援に来るのが遅かったという理不尽な理由で叱責しています。二人は以前から仲が悪く、これ以前にも曹休が賈逵の昇進の邪魔までしたことがあったようです。
「石亭の戦いの戦術図(イメージ)」
北
────────────────────────────────
【湿地帯】 魏中央軍(○○○○○) 【湿地帯】
前方に呉軍丘陵陣地が見える 足場が悪く進軍困難~~~~~~~~~~~~
曹休別働隊(迂回路)↘︎
【樹林帯】隠蔽性高く、敵から視認されにくい
────────────────────────────────
【長江】
≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈≈
────────────────────────────────
【丘陵地帯】 呉軍本陣(◎◎◎) 【丘陵地帯】
高所から矢・投石で攻撃可能 司令部 高所から見張りや攻撃
△△△伏兵配置 ◎孫韶ら指揮 △△△伏兵配置
────────────────────────────────
南
曹休の最期
石亭の戦いの後、曹休は大敗したのが余程に堪えたのか、その年の内に背中に悪性の腫瘍を患い、55歳で死亡してしまいます。壮侯の諡号を贈られ、子の曹肇が後を継ぎました。彼はこの時の敗北が、自身のキャリアだけでなく、魏の国力にも大きな損失を与えたことを深く後悔していました。曹休の死は、魏の多くの人々から惜しまれました。
曹休の死後、特に呉との国境防衛において、彼の後任がなかなか見つからず、魏は苦戦を強いられることになります。
人物像と評価
同僚や部下からの信頼
曹休は、同僚や部下からの信頼が非常に厚い人物でした。彼は分け隔てなく人と接し、困っている者には手を差し伸べるなど、温かい人柄で知られていました。特に、彼が率いた兵士たちは、彼のことを心から尊敬し、彼のためなら命を投げ出すこともいとわなかったと言われています。彼の死後、多くの兵士や部下が彼の死を悼み、その人柄を偲びました。
後世の歴史家による評価
後世の歴史家たちは、曹休を「勇猛果敢な名将」と評価する一方で、石亭の戦いでの大敗を指摘し、「軍略家としては一歩劣る」と厳しい評価を下すこともあります。しかし、彼の忠誠心や人柄の良さ、そして魏の発展に貢献した功績は広く認められているようです。
史実と『三国志演義』での違い
史実における曹休は若くから曹操に重用され、魏の天下統一に大きく貢献する姿や、彼の人間性や葛藤、そして失敗も詳細に記されています。一方で『三国志演義』では、彼の活躍は比較的簡素に描かれ、特に石亭の戦いでの敗北がより悲劇的かつ、誇張されて描かれる傾向があります。
まとめ
曹休は、曹操の族子として早くからその才能を認められ、魏の発展に大きく貢献した名将です。しかし、石亭の戦いでの惨敗は、彼の人生に大きな影を落とし、失意のうちに病没するという悲劇的な結末を迎えました。彼の戦術は機動力を活かしたものでしたが、時には敵の計略を見抜く洞察力に欠ける面もありました。それでも、彼の忠誠心と温かい人柄は、多くの人々から慕われ、後世にその名を残しています。

コメント