呂蒙と並び称された武将:国士と絶賛された蔣欽の活躍を徹底解説!

目次

はじめに

蔣欽は孫策の代から呉に仕え、江東の平定に貢献しました。武勇だけでなく、質素倹約を旨とし、学問に励んだ知勇を兼ね備えた将としても知られています。この記事では史実に基づき、孫呉の発展に尽力した蔣欽の生涯と人物像をはじめ、主な戦歴や活躍、私情を挟まない人材登用の精神といったエピソードを詳しくご紹介します。

孫策から仕える古参の武将

字は公奕(こうえき)。揚州九江郡寿春県(現在の安徽省寿春県)の出身です。彼の具体的な生い立ちや両親についての記述は多くありませんが、蔣欽が登場するのは孫策が袁術の下に身を寄せていた頃です。蔣欽はこの頃から、周泰と共に孫策の側近として仕えていました。周泰と共に孫策の側近となったことから、彼らが孫策の江東進出以前から縁があったことが伺えます。

主な戦歴・活躍

江東平定戦で功績を立てる

江東平定戦では、孫策が江東に進出する際に別部司馬に任じられ、兵士を与えられています。孫策に従って、丹陽郡・呉郡・会稽郡の三つの郡を平定し、さらには豫章郡へ進出しました。彼は軍事面での功績を積み重ねただけでなく、地方統治においても能力を発揮しました。具体的には、葛陽県尉に任命されたのをはじめ、三つの県の県令も務めています。

また江東地域ではたびたび、山越と呼ばれる不服従民が反乱を起こしていましたが、蔣欽は彼らを征服することに成功し、会稽の西部都尉に昇進しました。

不服住民の反乱を鎮圧

江東の平定後も、各地では反乱が頻発していました。会稽に駐屯していた頃、呂合や秦狼らの不服従民が反乱を起こすと、蔣欽は軍を率いてこれを攻撃し、呂合と秦狼を捕虜にする功績を立てました。これにより五つの県が平定されたため、討越中郎将に転任しています。その後も、黟県(いけん)を転戦し、一万の兵を指揮して反乱の討伐に向かい、これを鎮圧しました。このように平定戦において、江東の統治基盤を固める上で、蔣欽は重要な役割を果たしました。

合肥の戦いで孫権を窮地から救う

合肥は巣湖の北岸に位置し、呉にとって長江流域の完全な掌握と、北への勢力拡大を図る上で、絶対に落とすことができない戦略上の要衝でした。対して魏にとっては長江防御の最前線拠点でした。

215年、孫権は10万の大軍を率いて合肥への進攻を開始します。これに対し、合肥城には張遼・李典・楽進と7000の兵しかおらず、呉は圧倒的に優位に立っているはずでした。しかし、張遼の決死の奇襲と疫病が発生したこともあり、合肥城の陥落を断念した呉は、撤退を開始します。この時孫権は自ら撤退の指揮を執り、呂蒙・蔣欽・凌統・甘寧と1000人弱の兵と共に川の北岸に残り、最後に撤退するところでした。しかし、これを見た張遼は、楽進ら7000人の兵で襲撃し、包囲された孫権は追い詰められることになります。

蔣欽は凌統らと決死の覚悟で敵の追撃を防ぎ、張遼らの猛攻から奮戦して孫権を守り切るという手柄を立てました。この功績で盪寇将軍に任命され、濡須督となります。

濡須口の戦いでの総指揮

217年、曹操が大軍を率いて濡須口に侵攻した際、蔣欽は呂蒙と共に諸軍の総指揮を執るという大役を任されました。呂蒙との連携と指揮により、曹操軍の撃退に成功し、呉の防衛線を守り抜きました。この功績により右護軍に任命された蔣欽は、都に召還され、訴訟の事務も務めました。

人物像・性格

私怨を捨て、徐盛を褒め称える

濡須口の戦いでは活躍に加え、彼の人間性を示すエピソードがあります。かつて蔣欽の留守中に、蕪湖県令の徐盛が、蔣欽配下の罪を犯した役人を逮捕し、斬首を申し出ました。蔣欽が遠方にいたため、孫権は許可しませんでしたが、徐盛はそれ以来、蔣欽からの報復を恐れていました。しかし、蔣欽が呂蒙と共に軍を統括することになった際、蔣欽はことあるごとに徐盛の優れたところを褒め称えました。

孫権はこの行動を見て、「徐盛は以前、あなたの部下を報告したが、今は徐盛を推挙される。祁奚に倣うつもりかね?」と尋ねました。祁奚とは春秋時代の晋の人物で、私怨に囚われず公正に優秀な人物を推挙したことで知られます。蔣欽はこれに対し、「公務である推挙で私怨を持ち出すべきではありません。徐盛は忠勤に励み、大胆で知略に富んでおり、器量も備えていて、一万の兵を指揮するに相応しい人物です。国家のために才能ある人物を登用する義務があります。どうして私怨に囚われて有能な人材を隠れたままにしておきましょう」と答えました。孫権はこの言葉に大いに喜びました。徐盛は蔣欽を尊敬し、また人々も蔣欽の徳を褒め称えました。この言葉は、彼の公明正大な精神と大局を見据える視点の高さを証明しています。

勉学に励み国士と称賛される

蔣欽は聡明ではあったものの教養に乏しかったため、呂蒙と共に孫権から勉学に励むように諭されました。このため必死に書物を読んで学問に取り組みます。その努力は呂蒙と並び称される程で、孫権は二人を「その行いは人々の模範となり、国士である」と称賛されました。

また、功績を挙げ昇進しても奢ることが無く、質素倹約に努め、母や妻にも粗末な衣服や装飾品を用いさせていました。このことに気づいた孫権は、すぐに命令して豪華な装飾が施された衣服や装飾品を届けさせています。

蔣欽の最期・評価

219年、荊州争奪で孫権が関羽を討伐した際、蔣欽は水軍を率いて、呂蒙の計画通りに漢水の流域を進み、呉軍の勝利に貢献しました。しかし、戦いを終えて帰還する途中に、病になり病死しました。

この知らせを聞いた孫権は、その死を深く悼み、喪服を着て哭礼(葬儀の時に大声で泣き叫ぶ、古代中国で行われた儀式)を行ったと記録されています。そして、蔣欽の妻子に対し、蕪湖県の住民二百戸と田地二百頃を与えました。これは、一武将の死に対して異例とも言える厚遇であり、孫権がいかに蔣欽の忠義と功績を評価し、その死を惜しんだかを示しています。

史実と『三国志演義』での違い

史実の蔣欽は、孫呉の初期を支え、内政・軍事面で功績を挙げた重臣として描かれています。特に、孫権に勉学を勧められて呂蒙と共に努力したことや、私怨を捨てて同僚の才能を評価する器の大きさも示しており、孫権からの信頼も厚いものでした。軍事面では、江東平定や山越討伐で手柄を立て、濡須口の戦いや荊州奪還戦など、呉の勢力拡大と防衛の要所で活躍しました。

一方、『三国志演義』では、彼の内面的な成長や政治家としての側面は影が薄く、水軍の将としての活躍が中心に描かれます。初期の活躍や合肥での奮戦などは描かれるものの、史実にある行政手腕や濡須口での総指揮、そして徐盛を評価するエピソードは、比較的簡略化して描かれています。また史実と異なり、赤壁の戦いやその後の南郡の戦いにも参加しますが、南郡で曹仁に大敗してしまうため、周瑜に斬られそうになる場面の描写もあります。

まとめ

蔣欽は、孫策の旗揚げ時から孫呉を支え、江東の平定と防衛に多大な功績を残した将軍です。合肥の戦いで敵の猛攻から孫権を守り、濡須口の戦いでは総指揮官を務め、防衛の要として活躍するなど、数々の重要な戦いで功績を挙げました。

また、武勇だけでなく行政官としても能力を発揮し、質素倹約の精神、学問への努力、そして私心を超えた人材登用の姿勢により、孫権をはじめ、同僚や部下から深い信頼や尊敬を得ました。219年に病死するまで、彼は一貫して孫権への忠義を貫き、その死は孫権に深く惜しまれました。

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