周泰:孫権の命の恩人!窮地から孫権を守った全身傷だらけの勇将

目次

はじめに

周泰は全身に深い傷を負いながらも、孫権を窮地から守り抜いたことで知られています。周泰の生涯は、あまり多く語られることはありませんが、実は孫呉の歴史と深く結びついています。今回は史実に基づき、周泰の知られざる人物像や功績、そして主君・孫権との特別な絆について解説していきます。

寡黙で忠誠心の強い周泰

字は幼平。揚州九江郡下蔡県(現在の安徽省鳳台県)の出身です。彼の若き日の記録は多くありませんが、孫策が袁術に身を寄せていた頃、蔣欽と共に孫策の配下に入り、側近となります。たびたび功績を挙げ、孫策が会稽郡に進出すると、別部司馬に任命されます。孫権は周泰を非常に気に入っており、孫策に頼んで自分の配下に加えてもらっています。

周泰は寡黙で、あまり多くを語らない人物だったとされています。しかし、その内には主君への深い忠義心と、仲間を思う熱い心が秘められていました。また、彼は部下を大切にする人物でもあり、その人柄から多くの兵士に慕われていました。

主な戦歴・活躍

孫権を窮地から救い重傷を負う

周泰と孫権の関係を語る上で最も有名なのが、孫権が宣城で山越に襲撃された際のエピソードです。孫権が初めて軍を率いて宣城(現在の安徽省宣城市)を攻めた際、敵の襲撃を受け絶体絶命の危機に陥りますが、周泰は身を挺して孫権を守り抜いています。

197年、孫策は山越という、呉に対してしばしば反乱を起こしていた異民族の討伐を行います。この時、孫権もこれに同行し、宣城の守りについていました。以前、孫策は袁術が任命した丹陽太守である袁胤を討伐しています。これに激怒した袁術は、丹陽・宣城などに勢力を広げていた宗教指導者である祖郎という人物に山越を扇動し、孫策を攻撃するように命じていました。

孫権たちは兵が少なく油断していたところを、数倍の山越の反乱軍に突如襲われ、包囲されてしまいます。孫権がようやく馬に乗ったところに敵兵が迫り、馬の鞍まで切りつけられるという危機に陥ります。この時、周泰は味方を鼓舞し、全身に12カ所の傷を負いながらも、身を挺して孫権を守り切りました。孫権は周泰の働きのおかげで命からがら助かり、敵の撃破に成功します。重症を負った周泰は、暫くは昏睡状態に陥りますが、その後意識を取り戻しました。

この活躍で孫策からは大いに感謝され、周泰は春穀県長に任命されます。孫権は周泰の行動に感激し、彼の功績を称えて忘れることはありませんでした。

山越討伐や赤壁の戦いで貢献する

宣城での一件の後も、周泰は山越討伐において大きな功績を上げました。山越は呉にとって長年にわたる脅威であり、その討伐は容易ではありませんでした。周泰は優れた武力と指揮で、各地の山越を平定し、呉の勢力範囲を安定させるのに貢献しました。彼の働きは、孫権の統治基盤を固める上で不可欠なものでした。

また、黄祖討伐で功績を挙げたのを始め、赤壁の戦いでは周瑜や程普に従って曹操の攻撃を防ぎ、南郡での曹仁の攻撃にも参加しています。

濡須口の戦いで魏を撃破する

周泰の武勇を象徴する戦いの一つが、濡須口の戦いです。この濡須口は、合肥にある巣湖の南岸に位置しており、呉にとって魏との揚州方面での最前線の拠点でした。また、同じ巣湖の北岸には魏の重要拠点である合肥城があり、ここを攻略する上でも濡須口は落とせない場所だったのです。

217年、曹操が大軍を率いて濡須口に侵攻してきた際、周泰は前線で指揮を執り、魏を撃破することに成功しています。この功績により周泰は平虜将軍に昇進し、蔣欽の後を継いで濡須督に任命されています。彼の活躍は、呉の北方の安全を確保する上で非常に重要なものでした。

孫権、周泰に傷の説明をさせて涙する

濡須口の戦いでの功績が認められ、周泰が濡須督に任命された頃、徐盛や朱然といった武将は、周泰の指揮下に入っています。しかし、周泰の配下になることを徐盛と朱然は不満に思っていました。

そこで孫権は、諸将を集めて濡須の周泰の陣営に出向き、酒宴を開きます。そして孫権は、その場でいきなり周泰に服を脱がせました。孫権は、自身を守った時にできた傷の由来を周泰に一つ一つ語らせ、最後に「私が今在るのは、君のおかげだ」と言い、涙を流して感謝し、周泰の武勲を褒め称えました。

この件以来、徐盛や朱然は周泰の指揮下に入ることを納得するようになりました。孫権は更に周泰に対し、君主が使う傘を与えるなど、目に見える形で彼を厚遇しています。『江表伝』という呉の歴史書によると、孫権は周泰を親しく字で呼び、酒宴の後には軍楽隊の演奏で周泰を見送ったともあります。これは主君と家臣の信頼関係の深さを示す、非常に珍しい出来事と言えます。孫権が周泰をいかに信用し、感謝していたかが読み取れるエピソードですね。

謎に包まれた周泰の死

周泰の晩年に関する記録は多く残っておらず、彼の死因や正確な没年は不明となっていますが、222年から229年の間に亡くなったと考えられています。彼の死後は、息子である周邵(しゅうしょう)が跡を継ぎますが、230年に亡くなり、その弟の周承が爵位を継承しています。

活躍が盛られ過ぎている?『三国志演義』での周泰

赤壁の戦いが始まって間もない頃、韓当と共に先陣を務め、元袁紹の部下の張南を斬り、焦触を討ち取っています。また赤壁の追撃戦では、韓当と共に文聘を撃退し、さらに南郡の戦いでは、曹仁を一騎討ちで打ち破る活躍を見せています。

濡須口の戦いでは、韓当と共に許褚を攻撃し、許褚と一騎討ちをして引き分けています。第2回濡須口の戦いでは、曹操軍の張遼・徐晃・龐徳李典に攻撃されて窮地に追い込まれた孫権を、またもや傷だらけになりながらも救出しています。孫権に傷口の由来の説明をさせられるのは、史実と同様です。さらに、この時は乱戦の中にいる徐盛も救出しています。しかし史実では、孫権と徐盛は窮地に陥ることはなく、逆に曹操が孫権に包囲され、多くの犠牲を出して敗走しており、結果が真逆に描かれています。

夷陵の戦いでは、甘寧を弓で射当て戦死させた武陵蛮の沙摩柯を一騎討ちで討ち取っています。沙摩柯は確かに夷陵の戦いで戦死していますが、周泰に打ち取られたというのはフィクションです。さらに、沙摩柯が甘寧を戦死させているというのも創作であり、史実の甘寧は夷陵の戦いの前に亡くなっているとされています。

ちなみに活躍ではありませんが、宣城で孫権を窮地から救って重傷を負った時は、名医華佗が周泰の傷を治療したことになっています。

まとめ

周泰の最大の特長は、その驚くべき武勇と、全身に残された無数の傷跡です。特に、孫権を救った際に受けた傷跡は、彼の忠誠心を象徴するものとして、多くの人々に知られています。また、濡須口の戦いで曹操を撃破したエピソードは、周泰が単なる武勇だけでなく、優れた指揮官でもあったことを示していると言えます。

今回は、全身に深い傷を負いながらも孫権を窮地から救い、忠義を尽くした武将、周泰について史実に基づき解説しました。彼と孫権との特別な絆は、他の武将にはないものであり、寡黙ながらも、深い忠義心と勇猛さを兼ね備えた周泰は、まさに孫呉を支えた縁の下の力持ちと言える存在でしょう。

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