怪力と忠誠心で曹操を護り抜いた「悪来」典韋の壮絶な最期

目次

はじめに

三国志に登場する数多の武将の中でも、その並外れた怪力と忠誠心で知られる典韋。彼の生涯は、主君である曹操を命がけで守り抜いた壮絶な物語として語り継がれています。この記事では、典韋の人物像や活躍、曹操から厚い信頼を寄せられた理由まで、史実に基づきながら徹底的に解説していきます。

典韋の人物像について

豪傑として知られる

字は伝わっていません。彼の生い立ちに関する詳細は史書にはあまり残されていませんが、兗州陳留郡己吾県(現在の河南省商丘市寧陵県)の出身とされています。

若い頃、襄邑の劉氏のために彼の仇であった李永を討つことにします。李永は以前、富春県長を務めていたため、厳重な警備をつけていました。典韋は普通の客を装って、門を開かせると李永を刺し殺します。近所に市場があったため大騒ぎになりますが、暫く誰も典韋に近づく者はいませんでした。典韋は敵の仲間に出くわすものの、あちこちで戦って脱出に成功し、この一件で豪傑として知られるようになります。

驚異的な怪力

典韋は、若い頃から並外れた怪力と勇猛さで知られていました。陳留の太守張邈が挙兵すると、その司馬の趙寵に兵士として仕えます。誰も持ち上げられなかった陣営の旗を片手で持ちあげたので、趙寵に一目置かれる存在でしたが、武勇を夏侯惇に高く評価され、曹操軍の配下となります。曹操は典韋と会見し、その豪快な人柄と並外れた力に感銘を受けました。

曹操の親衛隊長として信頼される

曹操は典韋の忠誠心と武勇を深く信頼し、慎み深い性格でもあったため、親衛隊長として重用することにしました。典韋は曹操を護衛するため、常に警戒を怠りませんでした。曹操がどこへ行くにも傍で待機し、家に帰って寝ることは殆どなかったようです。

また曹操は彼を厚遇し、特別に食事や酒を振る舞い、常に傍に置きました。飲み食いの量は人の倍で、左右から酒を注がせ、給仕を数人に増やしてやっと間に合う程でした。典韋が武具を身につける際には、その手助けをすることさえあったと言われています。

呂布との戦いで曹操を守る

濮陽で呂布と曹操が戦った際、敵軍が曹操の陣営に迫る中、典韋は数十人の突撃隊を率いて、矢の雨の中で奮戦し呂布軍を防ぎ止めます。この時典韋は数十本の戟を手にし、味方に敵が近づいたら知らせるように命じます。そして五歩手前まで敵が来たことを知らされると、戟を投げつけ敵を撃退、百発百中だったと言います。ここでも自慢の怪力を発揮し、曹操の命を救うことになりました。

また、曹操の親衛隊の精鋭数百人を率いて、戦闘の度に先鋒として敵陣を陥れる活躍を見せます。これらの功績により、典韋は校尉に昇進します。

宛城の戦いでの典韋の活躍を物語形式で紹介!

差し迫る張繍の奇襲

197年、曹操は張繡が拠点としている宛城を攻略するため、本拠地の許昌から淯水まで進み、陣を敷きます。曹操軍の侵攻を知った張繡は、参謀の賈詡の進言で一旦曹操に降伏し、後に時期を見て追い払うことを決め、軍勢を引き連れて曹操に降伏します。曹操はこの申し出を受け入れ、張繍に引き続き宛城を統治することを許可しました。酒の席が設けられた際、典韋は大斧を持って、張繡たちを睨みつけたため誰も顔を上げられなかったそうです。

曹操は宛城に滞在中、張繡の義理の叔母に当たる鄒氏を気に入り、自分の妾にします。鄒氏は張繡の叔父である張済の後妻であり、張済の死後は張繡が面倒を見ていたため、曹操と鄒氏の関係がその耳に入ると、張繍は激怒して恨みを抱くようになります。

曹操は張繍が恨んでいることを知ると、密かに張繍を殺害する計画を立てます。しかし、張繡は曹操が自分を殺害しようとしていることを察知し、先手を打って曹操軍を奇襲することを決意します。張繡は賈詡の献策に従い、軍を大通りに移動させるのに、武装したまま曹操の陣営を通過させて頂きたいと申し出て、曹操はこれを許可しました。これをきっかけに曹操は危機に陥ることになります。

大混乱に陥る曹操軍

地理的に、宛城は漢水の北岸に位置し、水運に恵まれた地です。しかし、この地は奇襲を仕掛ける側にも有利に働き、特に夜襲となれば、入り組んだ城内や狭い路地は、敵を混乱させるのに絶好の場所でした。

張繡軍は事前に密偵を送り込み、曹操軍の布陣を把握していました。彼らは精鋭部隊を主軸に、複数の方向から一斉に攻撃を開始します。特に狙われたのは曹操の本陣です。曹操は油断し、警戒を怠っていたため、これが張繡の夜襲を許す最大の要因となります。曹操軍は張繡軍の奇襲に備えぬまま、宛城内に分散して駐屯しており、指揮系統も混乱していました。

曹操の本陣は宛城の中央部にあり、比較的広々とした場所に位置していましたが、夜襲によって周囲はあっという間に張繡軍に取り囲まれました。曹操軍は寝込みを襲われ、武器を手に取る暇もなく、次々と倒れていきます。張繡軍は城門を制圧し、曹操軍の退路を断ちながら本陣へと迫ります。この時典韋は、いつものように曹操の護衛に当たっていました。

曹操を逃がすために鬼神のように戦うも戦死する

張繡が夜襲を起こすと、典韋は曹操を逃がすため、部下と共に戦います。典韋が守っていた陣門には敵は侵入できませんでしたが、他の門から陣に侵入し、典韋たちを囲います。この時、典韋の部下はまだ十数人程いましたが、みな決死の覚悟で戦い、一人で十人以上の敵と打ち合う状況になります。次第に敵の攻撃は激しくなり、相手にする数も増え、典韋は長い戟を右へ左へ振り回し、一振りで十本以上の敵の矛を打ち砕く奮闘を見せます。しかし周りにいた部下は全員戦死しており、自身も数十ヶ所に傷を負ってしまいます。

それでもなお抗戦し、2人の敵兵を両脇に挟んで殺したため、敵は恐れてこれ以上進むことができませんでした。さらに再び敵に突撃して数人を打ち取るも、この時には既に致命傷を負っており、典韋は口を開いて目を怒らせ、大声で敵軍を罵倒しながら遂に息絶えました。敵兵はようやく典韋に近づくと首を取り、そのあまりの壮絶な死に様に、多くの者が典韋を一目見ようと群がったといいます。

ちなみにこの時曹操は、息子の曹昂と共に宛城より北を目指して逃亡していますが、乗っていた馬が足を射られて走れなくなっており、曹操自身も矢で右腿を負傷しています。曹昂もまた、負傷して馬に乗れなくなっていたため、自分の馬を曹操に差し出します。これにより、曹操はなんとか逃げることができましたが、曹昂は敵の追撃を受けて戦死、甥の曹安民もまた、撤退する曹操を守って戦死しています。曹操は多くの犠牲を払ってどうにか敵から逃れ、最終的に張繡は駆けつけた曹操の援軍に撃退された後、曹操に帰順しています。

「宛城の戦いの戦術図(イメージ)」

          北側山地
      ▲▲▲▲▲▲▲
       ↓張繍軍夜襲
 ┌──────────┐
 │        宛城          
 └──────────┘
     ↓奇襲部隊突入
   [曹操本陣]───退路(谷間)
         ↑典韋が防衛

曹操、典韋の死に悲しみに暮れる

曹操は典韋が戦死したことを聞くと涙を流し、遺体を取り戻すために志願者を募り、遺体を奪還しています。曹操は告別式で泣き、棺を陳留郡襄邑に送り届けさせます。曹操は、典韋が戦死した場所を通るたびに典韋を弔いました。彼の子である典満を郎中とし、後に司馬に採り立てて側に置き、厚遇しました。

史実と『三国志演義』での違い

典韋の人物像は、史実では彼の怪力と忠誠心が簡潔に記述されています。

一方『三国志演義』では、彼の活躍がより誇張されており、特に宛城の戦いでの奮戦は、彼の最期がより感動的な物語として描かれています。また史実とは異なり、酒で酔わされた隙に武器を奪われたため、敵の武器を奪って戦っており、敵の弓兵の一斉射撃を全身に浴びて、直立不動のまま息絶えたことにされています。しかし、彼の曹操に対する深い忠誠心とその壮絶な最期は、どちらの書物でも変わらず描写されています。

ちなみに「悪来」と呼ばれた典韋ですが、これはあだ名であって、もちろん字ではありません。『三国志演義』で、典韋の怪力っぷりを見た曹操が「古の悪来のようである」と言ったのが由来となっています。

まとめ

典韋は、その並外れた怪力と曹操への絶対的な忠誠心で、親衛隊長として常にその身辺を守り、多くの戦場で活躍しました。典韋は、宛城の戦いで曹操を守るために壮絶な最期を遂げ、曹操は志願者を募ってまで、彼の遺体を取り戻しています。それだけ曹操から愛され、曹操の支えだったことが分かります。典韋は、曹操の下で活躍した期間こそ短いものの、曹操から絶対的な信頼をされていた唯一無二の存在と言えるでしょう。

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